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  • 創業から戦火、復興、成⻑の1980年まで
  • 米国へ工場進出、80年代の海外戦略
  • フィリピン、中国に生産拠点
  • 経営近代化へ社内制度改⾰
  • 2024年⼀創業100周年を⾒据えて
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中西金属工業株式会社

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さきがけは東欧へのプラント輸出

リテーナーをブルガリア、ポーランドへ

  1970年代後半から80 年代にかけて、わが社の経営の方向を大きく変えたのは、海外への積極的な進出であった。1980(昭和55)年に米国テネシー州のメンフィスに現地法人「NKC OF AMERICA, INC.」(NAI)を設立、初の海外生産拠点としてコンベア工場を建設した。その8年後の1988(昭和63)年、アトランタに近い米国ジョージア州アセンズに、リテーナーの専用工場「NAKANISHI MANUFACTURING CORPORATION」(NMC)を開設している。

  こうした海外への工場進出のさきがけとなったのが、東欧へのリテーナープラント輸出である。1974(昭和49)年と1976(昭和51)年の2度にわたり、ブルガリア向けベアリングプラントのリテーナー部門をわが社が担当した。日本精工のプラント輸出の一翼を担ったわけで、中西一雄社長が首都ソフィアで調印に臨んだ。香水の原産地といわれるブルガリア中央部の“バラの谷”が、プラントの建設現場だった。

  これと並行して、日本精工のポーランド向けテーパー・ローラーベアリング用リテーナーのプラントを受注、1980年、わが社の建設メンバーは8カ月にわたる工事を終えて引き渡しを完了した。そんな折、ポーランド北西部の町、グダニスク造船所でストライキが発生、「連帯」による民主化運動が全国に広がった。混乱のなか、わが社のメンバーは無事帰国したが、「連帯」指導者のレフ・ワレサ氏はその後、大統領に就任している。

ブルガリアの第1次カロフェロ工場

ブルガリアの第1次カロフェロ工場

 

日米経済摩擦で家電、自動車が現地生産

  国際化の先鞭はリテーナー部門がつけたが、その後の米国展開ではコンベア部門が牽引車となった。その背景には、石油ショック後の集中豪雨的な輸出攻勢で日米間に生じた経済摩擦がある。米国は繊維に続いて鉄鋼、カラーテレビ、自動車などに輸入規制の網をかぶせ、日本側は輸出自主規制というかたちで対応した。自主規制という名の数量チェックを課せられた国内メーカー各社は、次々と米国での現地生産に乗り出した。

  それに伴う現地工場の生産ラインで、わが社製のコンベアの導入が始まった。その第1号が1977(昭和52)年の東芝テネシーのカラーテレビ工場である。これを手始めに、シャープのテネシー州メンフィスのカラーテレビと電子レンジ工場、本田技研工業のオハイオ二輪車工場と四輪車工場、さらに日産自動車のテネシー州ナッシュビルのトラック工場などに、わが社のコンベアシステムが導入されていった。

  これより先の1972(昭和47)年、わが社は米国最大のコンベアメーカー、アンカー・コンベアズ社と技術提携を結んだ。当初はアンカー社の技術に頼っていたが、その後の自社技術の開発と蓄積で、本田技研工業の二輪車工場の建設ではアンカー社を下請けに使うまでに成長した。米国以外では1973(昭和48)年に西ドイツ(当時)のステマン社をはじめ、台湾の隆徳有限公司、英国のギルマーティン社などと相次いで提携した。

 

海外進出の“露払い”で懐に飛び込む

  当時のコンベア業界のナンバーワンは椿本チエインで、ダイフクがそれに続いていた。この両社の牙城をどのように突き崩していくかが、わが社の大きな課題だった。輸送機部門の“切り込み隊長”といわれた杉原一廣・元取締役によれば、生産ライン現場での保守点検、アフターサービスの差別化に突破口を見出した。わが社のコンベアを導入したら100%維持管理に責任を持つ、と宣言して、これをまず海外で実践した。  その証として、家電や自動車工場の近くに出張所を置き、昼夜を問わず24時間、修理できる社員を張り付けた。当然のことながら、「中西の対応は早い」と評判になり、本田技研工業をはじめ鈴木自動車、日産自動車、三菱自動車工業に食い込んでいった。工場進出に伴うさまざまな雑用、例えば、駐在員の社宅探し、子息の学校手続き、かかりつけ病院、スーパーマーケットなど、日常生活に支障をきたさないようなお手伝いにも気配りした。

  東芝、シャープ、三洋電機各社に誘われる格好で、わが社はテネシー州メンフィスにコンベア工場を建設、操業を始めた。現地スタッフは労働組合対策や採用問題などを一足早く体験し、痒いところに手が届くコンサルタントまでやってきた。「海外進出の露払いはわれわれにお任せください」――が“殺し文句”となって、自動車メーカーの懐に飛び込んでいった。コンベア部門で総指揮をとったのが元常務の久住一郎だった。