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リテーナー再開し多角化路線へ

経済白書は「もはや戦後ではない」

  1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争特需で、わが国のベアリング業界も息を吹き返した。1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約により、翌年には占領時代が終わり、賠償指定も解除になって増産機運が高まった。大手ベアリング5社は設備更新に力を入れたが、この時点でわが社は共同歩調をとれなかった。当時の売上高の60%は自転車で、リテーナーは15%にすぎず、依然として自転車が経営の柱になっていたからだ。

  1953(昭和28)年にテレビ放送開始、合成繊維、合成樹脂といった石油化学製品が出回り、人びとの暮らしは少しずつ上向いていた。豊かさの時代にはまだ距離があったが、昭和31年度版経済白書は「もはや戦後ではない」とうたいあげ、そのフレーズが流行語となった。1955(昭和30)年から神武景気が始まり、さらに1958(昭和33)年からは所得倍増計画の池田内閣の登場で岩戸景気がやってきた。

  リテーナー生産の再開を模索していたわが社に決断を促したのが、神武景気に始まる日本経済の高度成長である。1955年に入社した藤川翰・元取締役は「入社してすぐ寝屋川工場のリテーナー職場に配属されたが、そのそばでは自転車のフレームをつくっていました。ロケット弾(榴弾)の弾頭部分や飛行羽根の加工もしていましたね」と、模索時代の生産現場の様子を振り返る。

リテーナーが軌道、自転車から完全撤退

1959(昭和34)年、戦後長く続いた自転車主力の経営から伝統あるリテーナー生産への本格復帰。中西義雄社長が2000万円を超える巨額投資にゴーサインを出した。ドイツ製ジグボーラー(投資額686万円)、万能研磨盤(同232万円)の導入をはじめ大型投資着々と進み、リテーナー生産が軌道に乗り始めた。一方、同年10 月、自転車工業会と完成車懇談会を脱会し、自転車生産から完全に手を引くことになった。

  わが社の多角化路線の第1弾はコンベア(輸送機)で、着手したのは1952(昭和27)年。昭和30年代の高度成長の波に乗り、リテーナーに次ぐ収益部門へと急成長した。テレビ、洗濯機、冷蔵庫の“三種の神器”による家電ブーム、続いてモータリゼーションの波が押し寄せる。そして乗用車、カラーテレビ、クーラーの“3C”時代へと一足飛びの大衆消費社会が出現した。1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開業は、「戦後」への決別でもあった。

  初期の日本通運、日本国有鉄道(現・JR)に続いて、東芝、日立製作所、シャープ、ソニー、三洋電機など、重電、弱電各社が次々とわが社のコンベア導入に踏み切った。大口導入の第2陣は自動車メーカーで、日産自動車、本田技研工業、三菱自動車工業、鈴木自動車(現・スズキ)、トヨタ自動車、東洋工業(現・マツダ)の各社がわが社製品を採用した。天の時が大きくものをいったものの、わが社の決断の早さと技術革新の成果でもある。

コンベアは家電から自動車ラインへ

  1959(昭和34年に入社、早々に東芝・名古屋工場に派遣された山本功・元取締役は、「扇風機と洗濯機の生産ラインの据え付けがわれわれの仕事。同僚と旅館に泊まり込み、寝食をともにしました」と回想。コンベアへの進出について「荷役だけでは将来性がない。生産現場に食い込まなければ、というのが中西義雄社長の信念でした」と語る。アイアンハンドによる家電ラインの自動化など、他社に先駆けて新技術を導入した。

  本田技研工業が初めて鈴鹿に自動車工場を建設、その生産ラインの主要部分をわが社が受け持つことになった。1967(昭和42)年のことで、最初は360ccの軽自動車からのスタートだった。わが社の担当はボディーをつくるプレス・溶接工程と塗装ラインの2つで、組み立てラインは先発メーカーのダイフクが受注している。

  自動車の初期に関しては、1966(昭和41)年入社の杉原一廣・元取締役の話が興味深い。「オートバイのホンダの自動車進出は大いなる挑戦だったが、製造ラインの発注を実績のある椿本チエインやダイフクではなく、わが社に決めたのも大きな賭けだったに違いない。後日、聞いた話だが、創業者の本田宗一郎さんが“小さい会社でもやる気のあるところにやらせよう”と言ったとか。自動車業界では 後発のホンダが、同じ後発のわが社に発注するリスクをとった」。入社2年目の杉原は8カ月間、鈴鹿に滞在した。

住宅ブームで戸車生産に乗り出す

  リテーナー生産に全面復帰後、家電、自動車メーカー向けの大量注文をさばくため、戦後手放した工場を買い戻し、あるいは新設した。1960(昭和35)年に河内工場(寝屋川市)と三重工場(久居市)、1963(昭和38)年に寝屋川工場(寝屋川市)と富山工場(富山市)といった具合である。必要な資金をまかなうために増資を重ね、1962(昭和37)年に資本金は4000万円から2億円に跳ね上がった。さらに昭和40年代に入るとコンベア工場の新設が相次ぐ。

  1965(昭和40)年、わが社はサッシ用戸車の生産に乗り出した。多角化路線の第2弾である。戦後最大といわれた40年不況さなかでの新規事業に、社内では危ぶむ声も聞かれたが、やがて訪れる住宅着工ブームとビル着工熱を見越した中西義雄社長の勘と先見性が、結果的に功を奏した。この年、戸車を中心とする特機事業部が発足。その後の技術改良でステンレス製やプラスチック製など素材も豊富になり、種類も増えてゆく。

  家電ブーム、マイカー時代の産業界が増産競争を繰り広げた結果、人手不足が深刻な社会問題になった。中卒者が“金の卵”と騒がれ、さらに高卒者の確保にしのぎを削る時代でもあった。集団就職列車が東北から東京へ、九州各地から京阪神へ走ったのも1960年代から70年代にかけてである。この時代の採用活動に直接タッチした佐野浩夫・元取締役と中西豊顧問の話をここで記録にとどめておく。

“金の卵”求め西日本各地を行脚

  1960(昭和35)年入社の佐野の話。「私が担当したのは島根県、高知県、後に鹿児島県が加わった。早い者勝ちなので最寄り駅から職安直行が鉄則でした。中卒者には定時制高校への通学を条件に内定をとりつける。夜の自宅訪問と担任の先生との懇親がポイントでした。おかげで焼酎が強くなったがこれも業務の一環。わが社は大阪の優良企業と評判は上々でした」

  1970(昭和45)年入社の中西の話。「南九州の宮崎、鹿児島が担当で、中西義雄社長の三男の昇さんが開拓した地域を引き継ぎました。採用活動は毎年6月に開始して9月に決定するというパターンで、その間、何度も寝台列車で行き来しましたね」