ロゴ

  • 創業から戦火、復興、成⻑の1980年まで
  • 米国へ工場進出、80年代の海外戦略
  • フィリピン、中国に生産拠点
  • 経営近代化へ社内制度改⾰
  • 2024年⼀創業100周年を⾒据えて
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  • 会社概要

回すのはキミだ。

中西金属工業株式会社(NKC)

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シー・ティ・マシン株式会社

 

創業者はかざり職人の中西辰次郎

ベアリングとの出合いはT型フォード

  かざり職人、T型フォード、京都・祇園——これら3つが、中西金属工業のルーツをたどるキーワードである。
わが社の前身、中西製作所が大阪府西成郡川崎村天満の大川べりに設立されたのは1924(大正13)年6月19日。
創業者で初代社長である中西辰次郎は1880(明治13)年、鳥取市に生まれ、長じて青雲の志に燃え上洛した。
京都ではかざり職人として独り立ちし、かんざしなどの装飾金具の加工を生業としていた。
  1910(明治43)年ごろ、京都・祇園の八坂神社前にあったタクシー会社から、保有しているT型フォード車のベアリングの修理を頼まれた。
初めて見る機械だったが、分解してみてリテーナー(保持器)が壊れていることがわかった。
これが辰次郎とベアリング・リテーナーの出合いとなった。辰次郎の腕を見込んでの依頼だったが、自動車の数が増えるにしたがい、口コミでリテーナー修理の注文が舞い込むようになった。

  もっとも、中西製作所が本格的にリテーナー生産に乗り出す前は、金属おもちゃの専業メーカーで、工場の機械はほとんどが旋盤とプレス機だった。
ゼンマイ仕掛けで動く汽車や自動車などが、本場のドイツを含め欧米に数多く輸出されていた。金属おもちゃからリテーナーへの生産切り替えは、日本でも機械工業が興隆期を迎え、ベアリングの生産量が増え始めた時期と軌を一にしている。大正時代末期のことである。

関西系の光洋精工と取引スタート

  日本で最初にベアリングの生産を始めたのは1916(大正5)年の日本精工。
  関西では農機具メーカーとともにベアリング業界が揺籃期を迎えていた。
1921(大正10)年に光洋精工、1923(大正12)年に巴商会ボールベアリング部(現・NTN)などが、個人経営の町工場からスタートした。
  リテーナーの生産に本格的に乗り出した辰次郎は、光洋精工の創立者、池田善一郎氏との縁で製品を納入していた。
できあがったリテーナーを大八車に積んで、天満から猪狩野まで運んだという逸話を残している。
明治人特有の芯の強さを備え、決して冒険しない慎重居士でもあった。
銀行嫌いの無借金経営と堅実主義のおかげで、米ウォール街の株の大暴落に端を発した世界恐慌を、無事、切り抜けることができた。
  大恐慌後のベアリングの国内生産は、1932(昭和7)年38 万8000 個で、まだ国内需要の20%程度を占めるに過ぎず、残りの大半をスウェーデンのSKF 社の製品に依存していた。
SKF 製品はコスト高の国産品に比べ割安で、しかも品質は数段上とあって需要家のあいだでSKF信仰は強く、ベアリングの代名詞にさえなっていた。
そのSKF本社のリテーナー工場を中西金属工業が買収——というのは21世紀になってからの話である。

SKFに対抗、国産品を政府が後押し

  SKFの牙城を崩すまでには至らなかったものの、軍備拡張と国産メーカーの保護育成を急ぐ政府の強力な後押しがあって、国内ベアリングメーカー各社は生産設備を増強。
1933(昭和8)年には日本精工が関西に進出して兵庫県川辺郡小田村に神崎工場を建設した。
さらに、富山市の工具メーカー、不二越鋼材工業(現・不二越)が精密ベアリングの製造に乗り出した。
  昭和初期から10年代にかけて、日本のベアリングとリテーナー生産を押し上げる原動力となったのは、工作機械業界と自動車業界の発展である。
ドイツ・クルップ社の超硬合金工具の開発が、結果的に日本の工作機械やベアリングの近代化を促す起爆剤になり、一方、米国製ノックダウン車の供給が日本の自動車工業を刺激した。
1936(昭和11)年の自動車製造事業法の制定で、今日のトヨタ自動車、日産自動車が産声をあげた。