ロゴ

  • 創業から戦火、復興、成⻑の1980年まで
  • 米国へ工場進出、80年代の海外戦略
  • フィリピン、中国に生産拠点
  • 経営近代化へ社内制度改⾰
  • 2024年⼀創業100周年を⾒据えて
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  • 会社概要

回すのはキミだ。

中西金属工業株式会社

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軍需会社、戦争、そして敗戦

「神風号」に中西製リテーナー

  1937(昭和12)年4月、朝日新聞社機「神風号」が、東京―ロンドン1万5000余キロを94時間余りで飛行し、航空世界記録を樹立した。純国産民間機初の快挙に日本国中がわき返った。このエンジンと機体用ベアリングは東洋ベアリング製、リテーナーは中西製作所の製品だった。多くの国民の知るところではなかったが、誕生してまだ日の浅い日本のベアリング工業の技術水準の高さを示す格好のエピソードであった。

  その同じ年の7月、北京郊外の盧溝橋で日中軍が衝突、日中戦争が始まった。

  1938(昭和13)年には国家総動員法が施行され、日本は完全な戦時体制に突入していった。

  緊迫した情勢下で、国産ベアリングメーカーは順調に発展していく。SKF製品との品質、価格差はしだいに縮まり、生産設備の近代化も進む。資材である鉄鋼の配給統制に、ベアリング業界は2 系統にわかれ対応した。日本精工、東洋ベアリング製造(現・NTN)、光洋精工、不二越鋼材工業、天辻鋼球製作所の5社グループが日本軸受製造組合を結成。残りのベアリング関係製造業者は、第2グループとして道府県工連傘下に入った。

リテーナー専業体制で供給責任負う

  わが社は大阪府工連の傘下組合にあたる大阪鋼球軸承工業組合に所属した。ただ、2つのグループの間には資材の割当量に差があったため、要求されたリテーナーの生産が間に合わず、資材確保に奔走した。日米関係が風雲急を告げる1941(昭和16)年6月、わが社は資本金400万円で株式会社に組織変えし、社名を「中西軸承金属工業株式会社」に変更し、同年9月、旭精工とともに、日本軸受製造工業組合へ加入した。

  わが社の加入はベアリング業界に2つのインパクトを与えた。1つはベアリングの増産に必要なプレスリテーナーを自社生産することなく、中西製品に依存する体制ができあがったこと。もう1つは、これによってベアリング業界の通称になっている5社物、7社物 の基礎が固まったことである。リテーナー供給に全責任を負うわが社は、リテーナー用鋼板の自社生産を思い立ち、圧延機と熱処理設備を導入した。当時の専務、中西義雄の決断であった。

  12月8日の太平洋戦争開戦で経済統制は一段と厳しくなり、ベアリング業界は工作機械や工具メーカーとともに窮迫する資材を有効に配分するため、政府主導の「精密機械統制会」に加わることになった。

軍需工場、学徒動員、そして空襲

  拡充目標会社に指定されたわが社は、この時期に積極的な工場拡充に乗り出した。政府方針に沿って多くの紡績会社が軍需工場に生まれ変わった。ベアリング業界では日本精工の4工場(愛知、山梨、福井、長野)とわが社の4工場(千葉、京都、三重第一、三重第二)がそれにあたる。もっとも、1938(昭和13)年には東洋紡績天満工場の一部を買収、1940(昭和15)年には大阪府北河内郡九箇荘村(現・寝屋川市)仁和寺に広大な土地を求め、河内工場を完成させていた。

  戦況悪化とともにリテーナーの増産要請の前に立ちはだかったのが、資材不足と熟練工不足だった。平和産業に従事していた者を強制的に軍需工場に転職させる「白紙召集」という徴用制で、労働力を確保、補充する制度がとられた。こうした徴用工は1944(昭和15 第1章 創業から戦火、復興、成長の1980年まで19)年3月には288 万人、終戦時には600万人を超える膨大な数に達している。これでも足りずに最後の手段としたのが、学徒動員、女子挺身隊の結成だった。

  1944年7月のサイパン島の陥落で日本の絶対国防圏が崩れ、同年11月からB29による本土空襲が始まった。1945(昭和20)年3月13日から14日にかけての大阪大空襲では、大阪市内の3分の2が焦土と化す被害をうけた。B29による焼夷弾攻撃で、わが社の女子寮「扇の寮」も全焼した。ここには挺身隊員を含む女子工員約100人が居住していたが、寮内の防空壕に避難した23人が煙にまかれて窒息死した。

  死亡した23人は17歳から24歳の乙女で、うち17人は沖縄出身の女性たちだった。