ロゴ

  • 創業から戦火、復興、成⻑の1980年まで
  • 米国へ工場進出、80年代の海外戦略
  • フィリピン、中国に生産拠点
  • 経営近代化へ社内制度改⾰
  • 2024年⼀創業100周年を⾒据えて
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  • 会社概要

回すのはキミだ。

中西金属工業株式会社

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石油ショック乗り越え経営近代化へ

技術革新に次ぐ技術革新

  「“中西金属は素晴らしいプレス技術を持っている会社や”と、鉄工所経営の父に薦められた」「進路指導の担当教師は機械設計の先生で、中西金属の出身者だった」「“上場はしてないけれど、しっかりした技術を持った堅い会社だよ”と知人の銀行員に背中を押された」――昭和30 年代から40年代にかけてわが社に入社した人たちの志望動機の一端である。高い生産技術に裏打ちされた“リテーナーの百貨店”ともいわれてきた。

  ここで、技術を売りものにしてきたわが社の技術革新(イノベーション)の足跡を整理しておく。昭和30年代の第1号は、リテーナー生産のカギをにぎるプレス機の自動化。次いでリベット穴あけ自動機の開発、リテーナーの窓抜き柱押し半自動プレス、球面研磨機、トランスファ・プレスの開発と続く。1970(昭和45)年のリベット挿入トランスファ・プレスの開発成功は、わが社の技術史を飾るにふさわしい出来事だ。  この技術革新は、ベアリング業界を驚かせたばかりでなく、その後の省力化、合理化に大きく貢献することになった。旗振り役は中西義雄社長で、寝屋川工場と天満工場の職人グループを競わせ、わずか3カ月で完成させた、という逸話を残している。義雄社長の女婿の岩田元夫・元取締役(1967年入社)は、「完成品を日本精工の大津工場に持参したら、工場長から“よくぞこんなに早く”と感謝されました」と振り返る。

無傷で石油ショック切り抜ける

  1973(昭和48)年10 月、第4次中東戦争の結果、石油価格が一気に4倍にハネ上がり世界経済に大きな打撃を与えた。なかでも、消費エネルギーの7割を石油に頼り、その99%を輸入に依存していた日本経済は痛撃をうけた。いわゆる“石油ショック”とよばれる経済危機で、2ケタ台の伸びを続けてきた高度成長の時代にピリオドが打たれた。1974(昭和49)年の日本のGNPは-0.2%、戦後初めてマイナスを記録した。

  石油ショックが起こる3カ月前の1973年7月、中西義雄社長は会長に就任、長男の中西一雄専務が第3代社長に昇格した。変転する内外の経済情勢と日進月歩の技術革新時代を迎え、若返りを図るとともに近代化路線を推進するのが、社長交代のねらいであった。新社長はポーランド、ブルガリア向けリテーナーのプラント輸出をはじめ、早々にSKF、ティムケン、FAGなど世界のベアリングメーカーを訪問している。

社長交代で3大戦略目標掲げる

  経営課題の総点検を行った中西一雄社長は、①海外戦略、②技術革新、③管理体制の3大戦略目標を掲げた。その実現に向け社内体制の近代化が急務で、1976(昭和51)年に社内組織と機構改革を断行した。組織近代化の主なものは、社長室、技術部、生産管理部、保持器営業部特機営業課の新設である。

  一方、生産体制の合理化では、工場ごとに生産品種の統一を実施した。まず、ゴムシールを三重化工に全面移管、中西化工は戸車と樹脂リテーナーの専門工場とした。ラジアル・ボールベアリング・リテーナーの量産品種を三重中西、テーパー・ローラーベアリング・リテーナーの量産品を興西製作所にそれぞれ集約。少ロット、多品種、高精度製品は天満工場、金型製作を天満治具工場に担わせることにした。

  1973(昭和48)年の社長交代のとき常務に昇格、その後25年間このポストを務めた木村一夫、義雄会長の長女の婿で、中西輸送機社長としてコンベア部門を率いる久住一郎、それに主力のリテーナー部門を掌握している新社長の中西一雄。3人のトロイカ方式による経営がスタートした。

  社長交代から4年後の1977(昭和52)年2月、義雄は風邪をこじらせて肺炎にかかり76歳で他界した。現場と作業服をこよなく愛した職人肌の明治人であった。