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  • 創業から戦火、復興、成⻑の1980年まで
  • 米国へ工場進出、80年代の海外戦略
  • フィリピン、中国に生産拠点
  • 経営近代化へ社内制度改⾰
  • 2024年⼀創業100周年を⾒据えて
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回すのはキミだ。

中西金属工業株式会社

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なべ・かまから自転車生産へ

占領下で賠償工場に指定される

満州事変から太平洋戦争終結までの「15年戦争」の残したつめ跡はあまりにも深く、大きかった。戦争による死者は270万人、全国119都市が空襲に遭い、250万戸の家屋が焼失、900万の人々が罹災した。鉱工業生産は10分の1に減り壊滅的な打撃を受けた。わが社の工場は無傷で残ったものの、リテーナー生産はピーク時7153万個(1944年)が終戦の年に3881万個に激減、1947(昭和22)年にはわずか90万個に落ち込んでいる。

  ダグラス・マッカーサー率いるGHQ(連合 国軍最高司令官総司令部)の占領政策でベア リング業界を震撼させたのは、1945(昭和20)年10月に出された指令に基づく賠償指定の動きであった。

  GHQは陸海軍工廠をはじめとする賠償工場を次々に指定、わが社は1946(昭和21)年8月から指定工場となった。

  この賠償指定でわが社の主力工場にGHQ の軍政官が駐留することになった。工場の機 械設備を、日本が戦争で損害を与えた東南アジア諸国に移し、その国の復興と工業化を図ろうというもので、いつでも稼働できる状態に維持・管理するよう厳しく命令されていた。もし違反すれば操業停止の制裁が待ち受けている。やかんの湯をあやまって機械にこぼしたところを見咎められ、操業停止1カ月を宣告されたこともあった。

河内工場に駐留した米国軍政官

賠償工場指定により河内工場に駐留した米国軍政官。後列右から4人目が中西義雄社長(1946年)

中西義雄が2代目社長に就任

  終戦直後の混乱が続く1945(昭和20)年11月、わが社は社名を現在の「中西金属工業株 式会社」(NKC)に改め、初代社長の中西辰次郎が退任、代わって長男の中西義雄専務が第2代社長に昇格した。大混乱期を乗り切るための人心一新の社長交代であり、新社長の双肩には軍需会社からの転換、1万人以上の従業員、家族の生活確保がかかっていた。就任早々打ち出したのが平和産業のシンボルでもあるなべ、かまなど家庭用品の生産だった。

  手持ちのリテーナー用鋼板を使っての生産で、台所用品からすき、くわなどの農機具にも手を広げ、さらに自転車の生産に着手している。1946(昭和21)年3月のことで、中西 義雄社長の決断だった。庶民の乗り物として自転車が引っ張りだこになっている、難しい技術がなくても比較的簡単に生産できる、統制品なので販売ルートに乗せればいい――などの理由からだった。商品名は「アルプス号」「竜巻号」「NKK 号」などだった。

  製品は飛ぶように売れ、やがて月産1万の大台に乗り、自転車メーカーとして日本一の座を占めるまでになった。パイプを溶接して自転車のフレームをつくるというフラッシュ・バット方式は、わが社が初めて編み出したもので、当時の自転車づくりはロウ付けが主流だった。新技術開発にまじめにこつこつ取り組むという企業体質は、占領下の賠償工場という逆境のなか、自転車生産で育まれたといえる。

自転車生産トップの座も販売でつまずく

  しかし、自転車好調の波は長くは続かず、つまずきの芽は販売面にあらわれた。統制品のため、各地の自転車販売統制会社に卸せば、格別の販売努力を払わなくても売れたのは事 実だが、末端の多くは零細な小売店で代金回収が思うように進まず、不渡り手形の山を前に、資金繰り難の坂道を転げ落ちることになった。大阪―東京のロードレースを共催するなど派手なイベントも繰り広げたが、退勢をくつがえすことができなかった。  三菱重工業などの大企業までが自転車に参入、競争が激しくなったことも一因だが、販売体制の不備と販売・経理両面にわたって管 理体制が整っていなかったことが大きな反省材料として残った。1953(昭和28)年入社の木村一夫・元常務は「ものづくりにかけては人後に落ちないが、売りさばくノウハウに欠けていた」と回想している。

  一方、敗戦後の社会に目を転じてみると、激しいインフレと食糧難で労働運動が先鋭化し、各地でストライキが頻発した。GHQの指導で労働三法(労働組合法、労働基準法、労働関係調整法)が成立、労組結成熱は全国に広がった。わが社の従業員も生活苦にあえいでおり、1947(昭和22)年、総同盟を上部団体とする中西金属工業労働組合を結成した。

自転車販売関係先との懇親会

自転車販売関係先との懇親会

工場売却、従業員激減、役員が総退陣

  自転車販売のつまずきによる経営不振などで、わが社は相次いで工場を売却した。1949(昭和24)年の京都工場を手始めに大淀工場、その後、三重工場、千葉工場と続き、1957(昭和32)年には主力の河内工場まで売却に追い込まれた。そのたびに人員整理とストライキ が繰り返され、終戦直後に1万人いた従業員は減り続けて100人に激減、社長を除く役員全員が経営責任をとって辞任した。戦後最大の試練期であり、どん底の時代だった。

  もっとも、わが社の争議は、ベアリング業界史に残る東洋ベアリングの大争議に比べれば規模も小さく穏やかなものだった。組合員の良識ある行動は健全な時代認識によるものであり、同時に組合員の主張に耳を傾けた中西義雄社長の人柄に負うところが大きい。その後の労使一体となった発展と関係正常化の礎は、戦後のこの混乱期に築き上げられたといっていいだろう。